『徒然草』第109段「高名の木登り」 ~失敗はいつ起きる?~

徒然草第109段のアイキャッチ画像 古典作品

 

古典作品を現代人に役立つ形で紹介していく「役立つ古典」です。

 

今回は「失敗はいつ起きる?」と題して、鎌倉時代の随筆『徒然草』の第109段「高名の木登り」のお話を紹介したいと思います。

 

徒然草とは

今から700年くらい前(鎌倉時代末)の日本で、兼好法師(けんこうほうし)という人物が書いた随筆(エッセイ)というジャンルの文章です。

 

難しいことは分からない人は、兼好法師という隠居オジサンが、今までの人生経験をもとに考えたことを思いつくままに書きまくった文章と思っていただければOKです。

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『徒然草』第116段「寺院の号、さらぬ万の物にも」~キラキラネームの歴史~

2020年5月5日

詳しくをお読みになりたい方はぜひこちらをご覧ください。

 

それではさっそく見ていきましょう。

第109段「高名の木登り」現代語訳

 

ナナマツ的現代語訳~意訳含みます~

 

 木登りの名人と言われた男が、弟子を木に登らせて、枝を切る作業をさせた時に、弟子が高い所で作業をしていて、非常に危険に見えるあいだは何も言わず、木から降りて家の屋根の高さくらいになってから「失敗するなよ。気をつけて降りなさい。」と言葉をかけましたので、私は「これくらいの高さになったら飛び降りても降りられるでしょう。どうしてそんなことを言うのですか。」と申しますと、木登り名人の男は「そこなんですよ。目が回るほど高いところにいて、枝が折れそうで危険なときは、木に登っている人自身が恐怖心を持っていますから、何もいうことはありません。失敗は必ず簡単なところになってからするものなのですよ」と言った。

 

 身分の低い男の言葉ではあったけれども、その言葉は「聖人の戒め」と一致するものであった。蹴鞠でも、難しい体勢から鞠を蹴り出した後、もう大丈夫だと安心すると、必ず落としてしまうようです。

 

第109段「高名の木登り」原文

 

第150段「能をつかんとする人」原文

 

 高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふ事もなくて、下るる時に軒長ばかりになりて、「過ちすな。心して下りよ」と、言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛びおるるともおりなん。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る事に候ふ」といふ。

 

 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。

 

<言葉の意味>

・高名の…有名な

・おきてて…命令して・指図して

・軒長…軒の高さ

・目くるめき…目が回る

・あやしき下臈…身分の低い者

・聖人の戒め…立派の人物の教え

・鞠…蹴鞠のこと。鞠を蹴り上げ地面に落とさないようにパスしていく遊び

第109段「高名の木登り」解説

 

この話は高校の教科書にも載っているような有名なお話なので読んだことがある人も多いのではないでしょうか。

 

弟子を木に登らせ、作業をさせている間は何も言わず、作業を終えて木から降りてきた最後のところで「気をつけなさい」と注意する師匠の高名の木登り。それを不思議に思った兼好法師が「どうしてこのタイミングで言うのですか」と尋ねるというのが今回のお話です。

 

それに対しての高名の木登りの答えが「あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る事に候ふ」(失敗は必ず簡単なところになってからするものなのですよ)なのです。

 

ミスは自分が注意していないところ、ミスをするはずがないと思っているところでこそ起こるものである。もう大丈夫だと油断することの危うさを端的に言い当てています。

 

ミスは起きないというその油断こそがまさにミスの原因となる。それが師匠である高名の木登りの教えです。

 

どこにでもいる普通の人が、木登りという一芸によって世の真理に達したことに兼好法師も感動してこの話を記録したのでしょう。

 

最後の蹴鞠の話は鎌倉時代あるあるといったところでしょうか。蹴鞠では簡単なところのほうがかえって鞠のコントロールを失って地面に落としやすいという話は、当時の読者にとってはイメージしやすい話だったのかもしれません。

 

ちなみに交通事故の多くは、自宅近辺の走り慣れた道路で起こるものだそうですよ。大丈夫だと思っているときこそ「過ちすな。心しておりよ。」と心に留めておきたいものですね。

 

今日のまとめ

ミスは簡単なところでこそ起こる!