現代語で読むざっくり古典『方丈記』4「福原遷都」

古典作品

今回は『方丈記』の第4回「福原遷都ふくはらせんと」を読んでいきましょう。「福原」は現在の兵庫県神戸市のことです。遷都は都を変えること、現在で言えば首都の変更です。

 

日本の歴史の中で、実は一瞬だけ首都が神戸だったことがあったのです。

 

治承じしょう4年(1180年)6月、当時の平氏は圧倒的権力を誇っていました。(「平家にあらずんば人にあらず」なんていう言葉もあったくらいです)その平氏グループのボスである平清盛は、「治承の辻風」が発生した直後、突然遷都を実行しました。

 

当時は遷都ではなく行幸みゆき(天皇のお出かけ)とされましたが、400年続いた平安京からの突然の遷都に人々は大混乱に陥りました。今回はその時の様子を作者の鴨長明が振り返ります。

 

今回の文章は少し長いですが、分かりやすい表現を心掛けていますので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

 

現代語で読む「福原遷都」

 

また治承4年6月ごろ、急に遷都がありました。これは全く思いもよらぬことだった。嵯峨天皇の時代に平安京が都に決まってから、すでに400年ほどが経っている。それを特別な理由もないのに簡単に変えて良いはずがない。だから世の中の人がみんな不安になって、困り果てたのも当然だった。

 

しかしあれこれ言ってもどうにもならず、みかどを始め大臣、公卿くぎょうなどの上流貴族たちは全員福原に引っ越された。役人として国で働いている者たちは誰一人平安京に残ってはいられない。自分の出世にために上司に取り入って何とかしてもらおうと思っている人は、一日でも早く福原に引っ越そうと必死になり、出世のタイミングを逃したような人たちは、取り残されたように平安京に残っている。

 

平安京の都の中で争うようにして建てられていた家々も、日が経つにつれて荒れていく。家は取り壊されて淀川よどがわの水に浮かび、取り壊された後の土地は畑になった。

 

人びとの考えもすっかり変わってしまい、いざという時すぐ逃げられるように馬を大事にするようになり、牛車ぎっしゃのような乗り物を利用する人はいなくなった。

 

また平氏の支配地域でまだ安全だと思われる九州や四国などの領地を希望する人が増え、東北地方の領地は源氏との争いの恐れがあることから誰も欲しがらなくなった。

 

その頃用事があって私も福原京に行くことがあった。そこの様子を見てみると、土地の面積が狭くて、平安京のような区画を割り当てるのには不足している。

 

北側は山沿いで土地が高くなっていて、南側は海沿いで低くなっている。そして波の音が常にうるさく、潮風が思いのほか強い。

 

皇居は山の中にあるので、昔斉明さいめい天皇が遠征の際に九州に建てた宮殿もこんな風だったのではないかと思うと、これはこれで良い感じにも思えてきます。

 

毎日毎日家が解体され、福原京に向けて川も埋め尽くされるほどに材木が運び出されているが、今度はどこに家を建てるのだろうか。まだ空き地は多く、実際に建てられた家は少ない。

 

平安京はすでに荒れてしまい、福原京はまだ出来上がっていない。あらゆる人がみんな浮雲うきぐものような心細い思いをしている。福原にもともと住んでいた人たちは、土地を失って困り果てている。新しく福原京に移ってきた人は土木工事が辛いと嘆いている。

 

通りをながめると牛車に乗るべき高貴な人が馬に乗り、役人の制服を着ているべき人々が武士の普段着のような服装をしている。都の生活はたちまちに変わって今ではもう田舎武士の生活と変わらない。

 

この遷都は世の中が乱れていく前兆だと聞いていたのが全くその通りで、日が経つにつれて、世の中の人の心も不安で落ち着かない。結局人々の不満が全く収まらなかったので、遷都した年の冬に安徳天皇は、平安京にお帰りになった。けれども福原京に引っ越すために取り壊してしまった家々は、どうなってしまったのだろうか、全部が元通りに建てられたわけではない。

 

かつて賢帝と呼ばれた帝の時代には、慈悲の心で国を治められていたと聞いている。皇居の屋根を修理したとしても、あまりお金は掛けず、人々の生活が苦しいとご覧にれば、税金もお許しになった。

 

これは帝が人々をいつくしみ、助けようとなさっていたからである。今の世の中のひどい有り様は、昔と比べることではっきりとしてくることだ。

言葉の解説

もう少し詳しく知りたい方はこちらもぜひご参照ください。

嵯峨天皇

嵯峨さが天皇は日本の第52代天皇(786年~842年)(在位809年~823年)

天皇の位を退いた後も上皇として政治を続け、30年以上にわたって安定した治世をおこないました。また嵯峨天皇は漢詩と書道の名人としても知られています。

 

斉明天皇

第35代天皇の皇極こうぎょく天皇(594年~661年)(在位642年~ 645年)のこと。重祚ちょうそ(一度退位した天皇が再度天皇に即位すること)して第37代天皇(在位655年~661年)斉明さいめい天皇となる。女性天皇。

 

660年に倭国わこく(当時の日本)の同盟国だった百済くだらとう(中国にあった国家)と新羅しらぎ(朝鮮半島南東部にあった国家)によって滅ぼされた。これを知った倭国は百済を救援するため、筑紫つくし(現在の福岡県)に朝倉宮あさくらのみやという宮殿(本文中の「昔斉明天皇が遠征の際に九州に建てた宮殿」にあたるのがこれ)を造り唐・新羅との戦争に備えた。

 

斉明天皇は遠征軍が朝鮮半島に出陣する前の661年にこの地で崩御ほうぎょした(亡くなった)。その後倭国軍は朝鮮半島南部に上陸したが、白村江はくそんこうの戦い(663年)で唐と新羅の連合軍に敗北した。

 

 

福原遷都の理由

福原京への遷都の理由には諸説ありますがここでは有名なものを2点ご紹介します。.

平清盛のお気に入り

平清盛は現在の神戸市に大和田泊おおわだのとまりという港を作り、そう(現在の中国)との貿易で莫大な利益を得ていました。また清盛自身もこの福原の地を大変に気に入り、町を整備して長く暮らしてきました。そんな福原の地を、政治と経済の中心にしたいという思いから、清盛は遷都を実行したとされています。

 

平氏に反対する勢力と距離を置く

治承の辻風があった頃、後白河法皇ごしらかわほうおうの第二皇子おうじ以仁王もちひとおうが平氏打倒の兵を挙げました。この反乱自体はすぐに鎮圧されましたが、清盛は強い衝撃を受けました。

 

以仁王が反乱を起こした際、京都や奈良の寺社勢力(お寺や神社のこと。当時は武装勢力としての面もあった)は以仁王側に加わったからです。京都や奈良には反平氏、反清盛の勢力が多くいたため、そうした勢力と距離を置くために福原京に遷都したと言われています。

 

しかしこの福原京遷都の評判は最悪で、わずか半年ほどで平安京へと還都かんと(都をもどすこと)されました。今だっていきなり「明日から日本の首都は埼玉です。皆さんすぐ埼玉に引っ越してください」なんて言われたらきっと大ブーイングでしょうね。